昭和四十七年六月十二日 朝の御理解
X御理解 第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておく           のぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に           話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教           えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、           神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より           上になるとは思うな。」
 信心しておかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道をふんでゆくのぞと。その真の道をふんで行くという事、ふんでいくうちに、真の信心が出来ていくのであります。
 だから真の道をやはりふんでいかなけれはいけません。今日はそのへんのところに焦点を置いてお話を進めていきたいと思います。
 お道の信心が、わが心が神に向かうて行くのがお道の信心だとおっしゃるのですから、わが心が神に向かうて行く事の為に、自分のおかげを受けた事を神心となりて、人に丁寧に話をしていくというような信心がなされる。それが真の道を踏んでいくのぞと教えておられますから。
 本当に自分が真の信心になってしまわなければ、又、真の信心によって真のおかげが勿論あらわれてくる訳ですけれども、そういうおかげを受けなければ話してはいけないという事じゃないのです。成程、これが真の道というのであろう、これが真におかげというのであろうという、その自分のおかげと感じたおかげを、人にも丁寧に伝えていくという事。ですから、その時点では、まあだ、話ておりましても、人が導かれたり導かれなかったり、いや、導かれたところで、本当の助かりという事になってこない場合が多いのですけれども、けれども、そんならそれを、まあだ自分達位じゃお導きは出来ないとか、お話は出来んとかいうような事では、真の道を踏んでいく事にならない。ですから、例えていうならば、私の今日までの信心をひるがえってみて信心はわからんなりに、只、自分が有難いと思う事を一生懸命人にも伝え、話もしてきた。えらい感心して聞いてくれるから、これはおかげ頂くのか、信心になるのかと思うのだけれども、やっぱりそうではない。それでもやはりしなければ、伝えなければおられないようなものがありましたから、結局失敗しても、失敗してもやはりお話をさせて頂いた。失敗というと、何ですけれども、それが本当のお導きになっていなくとも話をしてきた。
 だから、いうならば、その時分に既に真の道を踏んでいきよったという事になるのじゃないでしょうか。いっぺんに真の信心がスパッと出来るという事じゃない。
 ですからこの辺のところをです、例えばおかげが受けただけでも、いわゆる神心となりてと、まあこれが神心と思われる、親切な心ですねえ、いわゆる、親切な心をもって人に伝え、いわば丁寧に話をしていく。
 これはだから、うちうちでもいいわけです。朝本当におかげ頂いて、有難かったと帰ってそんなら朝食の時間に話してもいいのです。何かそこにお茶を頂く時でもよしその時その時に応じて今日有難いと思った事を、神心となりて、これは自分だけじゃ勿体ない、この人にも聞いて貰わにゃという心なんですいうならば。
 そう又、言わなければ話さなければおられない程しの衝動的なものがです、出来てくるのが信心だと思います。
 今まで知らなかった世界に段々入っていく、喜びというものがね、まあだ訳はわからん、わかりませんけれども、とにかく、まあ有難いですねえ。今日は先生、こういうお話をなさったが、成程と思いましたというだけでもいいのです。だから、そういうひとつの過程を通らせて頂きながら、段々信心が自分のものが真の道を踏んでいくに従って、いわゆる真のおかげが受けられるようになる。その真のおかげというのを最近の頂く御教えの事でいうならば、自然の働きが日々偶然と思われる程しのおかげが表れてくるという事になるのじゃないでしょうか。
 金光様の御信心のおかげというのもはね、いわゆる自然の働き、その自然の働きの中に日々本当に普通でいうなら、ふがよかったというような連続です。いうならば、日々が偶然と思われる程しのおかげですねえ。そういうおかげをね、頂かせて頂く。それが私は自分の真の信心のひとつの定義という事になると思います。真の信心をすれば真のおかげが受けられんはずがない。おかげが受けられんなら、これはまだ真が欠けたと思わにゃならんです。
 ですからその真の信心を目指させて頂いておる過程を、ここでは言われ、又、真の信心になるとかくおかげが受けられる。しかもそれはです、自分が真の信心を頂いて本当に真の信心を皆んながああたのようなおかげが頂きたい。ああたのような信心を頂きたいというような人達が出来てきて、真の信心になっていくとすると、もうそれはいよいよわが心は神様へ向かって進んでいく。
 昔はね、金光様の先生の階級というのもがいろいろありました。装束がだから全然違っていました。お道でとはそこのところをどうか知らんですけれども、まあ、○○教当たりはいうならば、お供えがよけい出来ると、それだけ位が上がるという方法だそうです。だから本当いうたら、金光教の先生でも、それは妥当だと思いますね。おかしい事はないと思うです。そうでしょうが、沢山お供えが出来る程しにおかげを頂いておるという事は、もう信心が出来ておるという印ですから。だからやはり位が上がってもよかろうと私は思いますね。
 今日私がここで言おうとする事もそうなんです。真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ、それが神へなるのぞとこうおっしゃる。だから私なら私の話を聞いて下さって真の信心を頂き、真のおかげを表していける程しの人が一人出来たら、一人の神とおっしゃる事がわかります。自分の導きにようって、そういう信者が一人出来たら一人の神、二人出来たらだから二人の神という、神の位を頂いていくという事は、私はあたり前だと思う。成程神様へのお礼はこれが一番であろう、又自分自身はそれが神になるのぞと、こう教えておられます。そこでそんなら、真の信心にならなければ、なってしもうて真のおかげを表さなければ、そんならそれが出来ないというのではなくてです、自分がおかげを受けた事を、神心となって親切な心になって、その時点で自分の最高の神心をもって、人に伝えていく。それが、ここんところでは、人に丁寧に話をしていくのが真の道を踏んでいくのじゃと。
 真の道を踏んでいくに従って、真の信心が自分にもついてくるという事になるのでしょう。そして例えば、そんならお供えという事でもよいですけれども、真の信心者が一人例えば出来るとするならば、神様に最高のお礼であると同時に、それが神になるのぞという事をね、今のお供えが出来たから教職が一段上がる。人の出来んような御用が出来たら、それだけで一足とびによい神格を受けるという事もです、だから私は妥当だと思いますね。
 どんなに偉い先生達だと言ったって、御自身が助かっておられなかったり、信者が助かってなかったら、私はそれは名ばかりの先生だと思いますよね。実際に自分が助かり、そして実際に人が助かるという働きになってこなければならない。為にどうしても真の道を踏んでいくのぞというここのところを、大事にしなければならん。
 それは本当か、本当でないかわからんけれどもです、そんなら今日心を神様へ向かって、神様へ打ち向うたその例えばお返しに、有難い心の状態を頂く。その心の状態を人にも伝えていこうと、こういうのである。だからそれはまず、手はじめに、自分の周囲の人、だから家族同志でもいいて。そうなってくるとですね、例えば本当にまず家族があげての信心になってくると思うですね。段々それが段々広げられていくという事になる。
 昨日朝の御祈念の後に、むつやの信司さんがお参りをしてきた。それがその前の晩ひと晩中子供の幹雄ちゃんが四十度位熱を出しましてね、もう夫婦の者がはじめて、子供が悪いもんですから、もううつりかわり看病に当たったけれども、そして四時頃お参りしょうと思うたら、とろとろ寝てしまっでから御祈念にも遅れたというて参ってきた。それが出がけに家内は幹雄がず-っと泣くもんですから看ておるという状態 それでお取次をさせて頂いて帰りがけに、私が申しましたんですけれども、信司さん、今日の御理解を頂いてね、ここんところを頂いていったら、もう、おかげ頂くよと私が申しました。
 昨日のあの信心の根本になるものは、「荷物だけ行くよに馬はかやのかげ」という御理解でしたね。その荷物だけではなくて、人間だけが行くように馬はかやのかげというふうに頂きました。人間が自分で行っておるように思うけれども、実際は馬の背中に乗って行っておるんだと。それがかやのかげになってわかっていない。自分で生きておるように思うとる。自分で育ったように思うとる。だからそんなら幹雄さんでも、あんたどん夫婦で作って夫婦でまかのうて、夫婦で育てよるという思い方が根本的に間違っているんだと。昨日御理解三節から間違った考え方という事で、そういう事を頂いたでしょう。もう自分の子供と思うとる事が第一間違いなのだ。只、成程お乳も飲ませりゃ、おしめも替えてやるし、成程その面倒、世話はさせて頂いておるけれども、いわゆる目には見えないけれども、神様がお育て下さってあるんだと。
 そのお手伝いを両親はさせて頂いておるんだと。まあこういう大変な事をうかつにしておった事を、お詫びさせて頂いて、これからはそういう気になったら、信司さんもう帰ったらおかげ頂いとるばいと私は断言して申しました。
 出がけに昔からおります古い番頭さが、昨夜子供が悪かった事を話たら、そりゃ、あんた早う医者に見せにゃと言われた。けれども自分の心の中には、いやあこれはもう両親の信心でおかげ頂かにゃという事を感じましたから、まあそこんところをあやふやにして参って来た。
 それから久留米に用があって行ったとこういうのです。そして今日先生から頂いた御理解をです、ほんなこてもう、自分でばし育てよるごと、本当に根本的なところが間違うておったと、神様相すみませんと、そのお詫びさしてもらいながら、お礼申さして頂きながら、そしてこの事をね、うちの番頭さんが又医者にかけろと言うに違いないから、こういうふうに説明させて貰おうと思うたらね、どこから湧いてくるかわからん程感動したと、運転しながら・・・・。本当な事がわかるとそうなんですよね実際は。
 有難いなあ-と思うた瞬間後から追突された。もう親先生本当それをね有難いと思うた瞬間だというのですよ。本当言うたら真に有難いと思う心におかげ。
 ところがおかげでないような形になって表れた訳ですよ。
 原さんが自転車でお参りしてくる頃、もう有難うしてこたえん朝参りをして来るのに、有難いから目をつむってから有難うございま-すと思うた途端に田んぼの中に飛び込んでおったという訳なんです。だから問題はその飛び込んだ事でも後から、追突された事でもです、おかげなんですやはり、そしてそれを一直線に今度は前の車に持って行ってぶっつけた。だから二重衝突というですかねえ。
 そんな訳で帰らして頂いたけれども、又すぐお礼に出て来た。もう本当に幹雄が昨日あげん悪かったのが、嘘のようにそれこそピンピンして遊びよったと。もう本当にすぐその足でお礼に出て来とる訳なんです。そしてひっくるめてその事をおかげだと感じたという事なんです。
 だからね、それがおかげなんですよ実際は。私共日々信心させて頂いて、信心して変わった事が起きてきたら有難いと心得て信心せよというのは、それもおかげだと心得られるから、有難いというのである。それはよか事からよか事と例えば、又、売れた、売れたという事がおかげではないという事。
 だからこの辺のところがね、わからして頂くようにならなければ真の道を踏んでいく事にもならなければ、真の信心にいわば進んでいく事も出来んのです。
 自分の都合のよかごとなったつだけを有難い、おかげと言いよるのはです、これではいつまでたっても真の信心にはなれません。真の信心とは神様の御働きの全てが、有難いとわからせて頂く信心なんです。それでまん中ですから、後も前も自分の車が一番そでとるという訳なんです。それでもまあ、どうやら動くだけは動いたからそれで帰って来たという訳なんですけれどもね。おかげ頂いたなあと、又おかげと実感した事がおかげだなあというて話した事でした。
 昨日の御祈念は、博通先生が当番でした。それでお話をさせて頂いとりましたが、本当に信心は本気で神様に向かうておる人、向こうておる時の信心はもう、誰だって素晴らしいですよねえ。お話しとります中に、丁度昨日で四日目の断食修行が続いておる訳です。仲々ユ-モアの人ですから、ユ-モアたっぷりにね。もう、ほんにこげんきつかごたるなら、どうして親先生にお届けしたじゃろうかと思うと言うてから、一番口にその事を申しておりました。大概の者が三日四日位には楽になるのに、私は段々きつうなってからね、どうしてこんな事を親先生に・・・・お届けしとらんならもう止めようごたるばってん、お届けしとるもんじゃけんでしようがなかというような意味の話をしておりました。
 けれどもね、そういうそんなら修行でも、させて頂こうというのは、もう、いよいよ神様とのつながり、神様との絆と言うてましたですね、自分で。神様との絆をね、確かめたい、神様とのつながりを確かめたい。そして信心の醍醐味とでもいうような味わいがあるものなら、本当にそういう味わいを深めたいと言うておりました。
 私はそれを聞かせて頂いて思いました。本当にね表行はいかんとか、何とか言う人達も御教えの中にも表行より心行をせよとおっしゃっるから、もう表行はせいでんよいごと言う人が、本当の神様がわかるはずがないと思いますよ。
 本当に断食でもさせて頂いてです、わかる事は本当に神様と自分とのつながりというものをです、又は信心の三味境とでも申しましょうかねえ、有難い三味境、いわゆる醍醐味です。そこんところを味わうところを願いとして断食を思い立たして頂きましたというような話をさして頂いておった。
 それで私が後お話させて頂いた事ですけれどもね、そんなら、金光様の信心すりゃいつもそういう苦しい修行をさせて頂かねばならんかと言うと決してそうではない。 それはね、真の道を踏んでいくひとつの過程であって、ここで真の信心になれ、真のおかげが頂かれると、いうならば、自然と偶然が一致になるような程しのおかげをです、感じ又は頂けれるようなおかげを頂くという事が有難い。
 昨夜久富先生と二人でテレビを見ながら、夕食をさせて頂いておりました。そしたらね、駒まわしの曲芸ですねえ、あっておりました。扇子を開いて扇子の上を駒が。 そういう、いうなら神技を思わせるような芸を見よったら、もう私は感動して、久富先生がおかしゅうあんなさろうというごと感動するのですよ。それは例えば、悲劇のお芝居なんかを見て、涙が流れるというのは又別ですけれども、私はもう人が全然おもしろい、おもしろいと言いよる中に感動したり、なんでもないところに感動するのです。昨日もやはり扇子の曲まわしの駒を見てから、もうとにかく感動するのです それはまあ、ここまでにいたるには、随分の苦労があったという修行があったろうという事だろうと思いますね。
 例えば一芸に秀でるという事は、只、もう生まれつきに秀でておるのじゃない。あの人は信心は素晴らしいと言うても、生まれつき素晴らしいのじゃない。一生懸命精進する努力してです、それこそいつも神様と交流しておるようなおかげを頂くのであって、そこには人知れぬような修行が必ずあっておるのだという事。
 だからそんなら、断食はしなくとも、湯上がり一枚でお食事させて頂きながら、お酒を頂きながらでも、もう神様とこれは交流しとる姿なんです。だから段々おかげを頂かせて頂いて、例えば断食をしなくても、必ずしも羽織袴をつけなくとも、神様と交流出来れる信心を目指させて頂いて、お互いおかげを頂きたい。
 丁度それの後に、東京の新宿あたりで数年前まで髪を長くしたりして、たむろしていたフ-テン族、その人達の数年後の今日の状態を紹介しておりました。本人達が何人か出て話をしておりました。それぞれに学業に又は、就職して、又は親の元に帰って真面目に働いている。その中の一人が言ってましたがね、自分の事を一番思うてくれ、自分の事を一番心配してくれるのは親だと気がついたというのです。そういう生活をしよるうちに、それで親の元に帰ってお百姓しとるといったような話をしておりました。自分の事を一番思うてくれる親、例えば博通先生でいうならね、そういう修行させて頂いて、はじめて神様が氏子にかけられる願い、師匠が又、私はにかける願い、又は肉親の親が自分の事を思うてくれておる。自分の思いがいよいよはっきりとわかってきた。だからきつくはあるけれども有難いという話を昨日はしておりました それが心を神様へ向けない。只拝んどりますというとる間には、神様の心にもまじあわなしい、親の思いすらわからない。もう親が一番自分の事を思うておってくれる その親の事すらがわからない。精進しなければ。だからお互いでもそう、一生懸命の信心させて頂いてこそ、はじめて親神様の心というものがわかってくるのです。
 いわゆる真の信心に向かうていうならば、博通先生はいま一生懸命精進しとるという事になります。それが今は過程なんだ、そのたったちょっと四・五日の断食したばっかりのお話でも人に伝える事によって、夕べお参りし合わせた人が、私と同様みんな感動しただろうと思うのです。
 人に伝えていくのが真の道を踏んでいきよる訳です。そして出るところは、いわゆる真の信心である。そんならその真の信心という事には、どういう事になるかというと、真のおかげが受けられるようになる。その真のおかげというのは、それこそ、自然の働きそのものが、偶然、私一人の為に神様が働いてござるのじゃなかろうかと思う程しにです、私の上にそれが偶然のようなおかげになって表れてくる程しのおかげを頂く。もうそこには既に、成程真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、それが神になるのぞとおっしゃる。神になっていっておる自分をそこに発見する事が出来る。
 ここんところをです、いよいよ味あわせて頂く信心、そこんところの味わいがわかる信心にならせて頂く為に、今日の御理解のところを頂かせて貰う。そこに難儀なら難儀という事に直面して、親として子供が病気をしておる。しかも四十度からの、はじめの間はどこからどう熱が出よるのじゃらわからん。それは思いもしたろう。ちょこっと医者にも走ろうと思うたけれども、日頃頂いておる信心をまず先に頂いて、これは夫婦の者が改まって神様にお縋りするより他にないと思うて、お参りをして来て頂いた御理解が、信司さん、こういう心の状態、いわゆる、こういう考え方の間違いのところをお詫びしてお願いしていったら、もう帰ったらおかげ頂いとるよと、私が言った事が、ほんになる程、そうだと感じとらせて頂いた。
 もうそこから、いわゆるおかげが家では表れておる、同時に自分は久留米の方へやらせて頂いて、そういう事があった。けれどもそういう事までおかげと感じれる程しにならして頂いた。
 この話を番頭さんにどう伝えようか。この有難い例えば自分の考え方をです。信心のない者は子供をこげなふうにしとって、医者にもかけんなと言うかもしれんけれども、そう言うておる番頭さんに、こういうてわからせようと思うたら感動が湧いてきた。もう人に伝えない前に感動が湧いてきた。それを本当に有難い事を人に伝えようと思うただけでも、感動が湧く位なのですから、それを伝える事にならして頂くと、成程真の道を踏んでいくという事がわる気が致します。
 真の道を踏んでいかなければ真の信心は頂けません。そんなら真の道すがらというのは、成程子供がおかげを頂いたというのも有難いなら、そんなら他の自動車から追突されたという事も又、おかげであるというようなね、降ってもおかげ、照ってもおかげと少しわからせてくる程しに、真の道というのは素晴らしい。
 その向こうにです、真の信心がある。その先に又,真のおかげがある。その真のおかげを自然と偶然が一致点が出る程しのおかげ、自分の心がいよいよ神に向こうておる事を、いよいよ楽しみに信心が出来るという事になるのですよね。どうぞ。